この世には、いろんな平等が存在する。それらのなかで、もっとも支持されるのは結果の平等であり、それは不公平ではないとすら言われがちだ。

体育の授業で実施された「御手手繋いでゴールする」ような、あれだ。ナンバーワンを無くしていく、この結果の平等化は甘い囁きとなって人々を誘い込む。

しかし、呪いであると言いたい。

これは、才能や努力を蔑ろにする行為だ。共産主義社会では、何をしても平等に財産が分配されらために、誰も働かなくなった。

己の努力を否定されることと同義だったからだ。

人は認められることによって、やる気を出す生き物なのだろう。やればやった分だけ、きちんと結果が出る世界にこそ魅力を感じる。

つまり、必要とされるのはスタートラインの平等化との定義がしっくりくる。

その上で、差別とは何かを話すべきだろう。

システムによって、仕組みによって、スタートラインにつけないことが差別であり、不利が生じることが差別である。

この定義をぼくは支持する。

結果の平等化はするべきではない。そんなものに未来はない。しかし、誰もが機会均等であるべきだ。それをしなければ、才能を埋もれさせることとなる。

日本にとって、人材は国の宝。それを最大限に見つけ出すことに注力すべき。

学校教育を無償化するのもよいのかもしれないが、それよりも「何度でも色んなビジネスに挑戦できる仕組みの支援」を国はすべきではなかろうか。

机上より実践こそ重要。頭の中や言葉の上で何かをこねくり回しても意味はない。自己満足しか得られない。まずは、やって見ること、やらせて見ることが大事だ。

失敗しても「てへぺろ」でいいのだ。これでいいのだ。

 

 

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