秋アニメ2016『舟を編む』にて、「言葉を大切にする」がキーワードのひとつとして取り扱われた。

作中では、「右」をいかにして説明するかと問われた人物がうんうんと唸って、いろいろと説明の仕方を試行錯誤した上で「体を北に向けたとき、東にあるのが右」と説明していた。納得だ。これはまさにその通りだ。

このように物事を説明するときに、相手にいかにすれば自分の思っていることをより正確に伝えられるのだろう。それを考えることを、言葉を大切にするだと解説された。

ぼくのなかで、不思議に感じていた違和感が氷解した。なるほど、となった。

世の中には、言葉を大切にしないひとがいる。ぼくは大切にしている自覚はなかったのだけれども、改めていわれると、「そうか、大切にしていた。大切にしようとしていたのだ」と理解した。

言葉を杜撰に使うひととは、会話すらままならぬ。言葉を独裁的に使うひととも、会話は成り立たぬ。言葉を知らぬひとは、上のふたつより、まだ話を聞こうとする分、会話は成り立つ。そうなると、杜撰と独裁はどれほど言葉を扱えていないのかと、不憫にすら思う。

言葉を大事にしていないひとにとって、言葉を大事にしているひとの物言いは面倒くさく、どうでもいいことなのだろう。大事にしてるひとからすれば、それを見るたびに聞くたびに、意思の疎通なんてする気がないのだと落胆させられる。

あれは、単に言葉を大事にしていない。何を伝えようとしているのかを読み取ろうとしていないのではなく、適当に読み取ったつもりになって終わっているだけだったのだ。

言葉を交わすことがままならぬのであれば、友情を育むのも、恋愛を深めるのも、無理だ。相手の発する言葉を信じられぬと、情を交わすことすら難しい。まだ言葉を使わぬ犬猫のほうがマシである。だが人間は言葉を交わす生き物だ。

大事なのは、相手の言い分を知ろうとすること。そして、自分の言い分が伝わっているのかを、きちんと確認すること。

言葉について真剣に考えたことがあれば「完璧に伝える」なんて不可能だと知っているはずだ。これを知らぬのは、未熟だ。八割伝われば、それでよし。だがしかし、無理を通して、完璧を目指すのは独裁でしかない。逆に伝わらないからと、伝えようともしないのは杜撰の極みだ。

相手に思いを伝えたい。そう願うからこそ、言葉を重ねても、重ねる。だが杜撰なひとは読み取らない。独裁のひとは、聞いてるつもりで聞こうともしていない。悲しいことだ。せめて、言葉を丁寧に扱うひとに囲まれて生きていたい。

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