雛って言葉を見ると、雛見沢を思い出す年代ではあるのだけれども、そもそも雛ってよほど不気味だよね。ぼくは男だから、家に雛が飾られることはなかったけども、あんな大量の人形が飾られているなんて、ちょっと恐ろしさを感じてしまう。

そもそも、ぼくは、ヒトでないのに、ヒトのカタチをしているものが怖いと感じる癖があったようだ。今はそうでもないけれども、幼少期に千葉にある夢の国にいってギャン泣きしていたそうだ。なので、そうだったんだろうと決めつけている。物心もつかぬ、本当に三つ子の頃のお話で、でもだからこそ、本当に怖かったんだろう。脳みそではなく、反射で怖かったんだろう。

怖さを膨らませれば、虚聞風説は生まれる、流れる。妖怪が其処に在るようになる。なれば、ぼくにとっては、とても楽しい。愉悦。随分と捻くれてしまったなァと感じるのだけれども。

そういえば、人形といえば、和歌山の生まれであるぼくにとっては思い出す場所がひとつ。そう、オカルト好きなら知っているだろう。人形供養の淡嶋神社だ。いついっても、多くの人形が飾られている。市松人形、十二支、蛙、狐、そして花魁。他にも様々。和風のものだけでなく、南蛮や舶来のものまで置かれている。一節には、ラブドールや着ぐるみも来るのだとか。

人形って、モチーフとして面白いよね。ホラー漫画なら人形が出てきたら、かならず怪異の主人公になる。そうでなくとも、和風の恐怖演出には、必ず人形が用いられる。人形自体が何かしても何もしなくても、ひとのこころを乱す何かを持っているんだろうね。それはヒトあらざるものでありながら、ヒトのカタチをしていることが大きいのかも。

子供の頃のぼくは、そんな根源的、原始的な恐怖を感じていたのかもしれない。こういう素の恐怖ってとても大事だ。そういうものこそ、ひとのこころを本当にかき乱す。アタマで考えて考えて考えぬいた恐怖のなんともつまらんこと。あれほど心を動かさないものもない。体はビクッと動くけどね。

やはり、不如意でなければならぬ。不如意だからこそ、恐怖の感情は駆り立てられる。どうしようもないからこそ絶望感は生まれる。大事なんだよ。人形は何もしないけど、だからこそ不気味なんだよ。この不気味さは如何ともし難い不如意なんだよ。

人形師はきっと怖がらせたくて作ったわけではない。だが怖い。この矛盾。しかし、だからこそ、そこに宿っている生命を感じるんだ。雛は怖いよ。とても怖いよ。だって、それは、それの目的でなく作られたのに、ひとに恐怖を感じさせるのだもの。怖いよ。

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