サイコパス劇場版、鑑賞。

ストーリーとしては、狡噛慎也と常森朱がメイン。公安局刑事課一係の出番を期待していくと、ちょっぴり物足りないかもしれない。でも、アニメ2期を視て、劇場版を視ると、改めて脚本は虚淵先生の方がしっくり来るなーっとシミジミ感じた。

虚淵先生の信者ではないし、担当したエロゲをやったこともないけども、アニメフリークなので、まどマギ以降のアニメはきっちり見ている。何を伝えたいのかは知らないけども、ぼくがガンガンに感じているのは「その正義は誰目線なのか」「押し付けられた平和に飼いならされることは幸せか」なんだよね。

キュウべえの魔法少女の勧誘と、シビュラシステムの展開する平和維持は似ている気がする。それはとても魅力的で、心地よくて、価値の高いモノに見える。でも、それを受け入れると、ひととして必要な何かを失ってしまうことになりそうな。いや、キュウべえやシビュラシステムの駒となることを受け入れることになるような。そういう感覚がある。

正義は、その時に信じているモノを盲信するような行為だ。常森朱は、シビュラシステムの正義を理解はするけども、受け入れない。己の正義を持っている。ゆえに、かつてロートルたちが信じていた正義に依存している節がある。

アニメ2期の霜月美佳は、シビュラシステムを盲信し、完全なる奴隷となり果てていた。だが、劇場版の霜月美佳は一味違う。今風の子をイメージしているのだろうか。システムを理解し、その駒であることを享受しながら、最適解を導き出して行動する。はっきり言えば、アニメ2期の霜月美佳は最適解にたどり着けていなかった。この違いは大きい。

シビュラシステムの駒となる、今どきの子。そういう意味合いでは、アニメ2期と劇場版の霜月美佳は同じだ。根底は同じなのだけれども、演出が全く違う。それ故に、アニメ2期を見ていたひとには違和感を感じるひとが多かったかもしれない。

だが、そうした、シビュラの申し子とも言える霜月美佳がいるからこそ、常森朱の思想や行動は、よりわかりやすく浮き彫りになっていた。と、ぼくは感じた。楽園追放の際にも描かれた、作られた平和と、その外側の荒れ果てた他処。シビュラシステムの突きつける正義は、とてつもなく正しいけども、最大多数個人の最大幸福のために、最小を犠牲にするやり口を享受するべきかどうかを考えさせられる。

それは目先の幸せなのだし、誰もが食いつくだろう。不慮の事態が起こり、システムが崩壊した時、自分の頭で考えなくなっていれば、尚更ひどい結末が待っている。例え、奴隷に成ることを選んだとしても、己の判断を重ねることだけは忘れてはならないと感じる。

誰かから与えられた最適解の答えと、自分が悩み抜いて得た答えが一緒だとしよう。前者に従っておけば良かったと、本当に言えるのか。悩み抜いた結果、違う答えが出るケースもあるかもしれない。そのかもしれないを否定することは、自己喪失を引き起こす。

自己を崩壊させてしまえば、それは家畜の豚と同じだ。搾取されることすら是とする。そんな人間が溢れかえる世界なんてツマラナイ。だから、槙島聖護は、世界に狂気を持込、己の判断を重ねなければならない状況をつくりだしたのかもしれない。その根拠は、自分が楽しいからという、子どものような理由だったのだけれども。

なんて、タラタラ考えさせてくれる。サイコパスは続編がある空気があったし、此れからも愉しみなシリーズだなー…。

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