モトタキの物書き活動録

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卒業間近のJKとの対話で気付く「JKブランドと青春」

‪もうすぐJK卒業するJKの友人が「あたし、JKブランドとかよくわからない! はやく卒業したい」と言ってて、ぼくはなんとなく(それでいい)と思った。‬

‪若いってそういうことで、口で言っても理解もできない。実感は存在しない。‬若い頃にあれをしておけばよかったと後悔する人間のほうが圧倒的に多い。人類は知らないけど、日本人は多い。

‪無駄なことしかできない生き物なんだよなあ、と。あのときにあれができていれば、あれをしておけば、あれに気付いておけば。

そんな『あれ』と共に生きるのが人生なんだよな、と三十半ば近く生きて思う。たぶん早死にする家系なので、今は人生の折り返し地点だよなあと。

小賢しいんだよ、大人。だから、損をしている気分になるんだよ。でも、若さは失われるものだけど、それを持て余す頃はわからない。無駄にして、台無しにして、それが青春なんだよな、と。

だから若者を見ると言いたくなるんだよ。でも、若いなんて、ほんと十代の間だけ。どんなに頑張っても、25歳で年上を年齢で弄ってるようだと手遅れ。

「さっさと大人になりたい」と言っても、結局大人になるためには経験を積み重ねるしかない。むだに年齢ばかりを重ねてもダメ。

本当に若いならまだしも、二十代になってから『おじさん』を悪く言うのは、それだけ「自分は何も持ってません。若さを失ったら、何の価値もありません」と白状しているようなもの。

若さなんてものは、それを経験に変えて、自分を成長させられる『可能性』だから尊い。若さを失ったのなら、それなりの経験値を稼いで得てきた見識があるわけだから、敬う対象となる。

そんな当たり前のことをわからないで通せるのは10代まで。高校生の間だけ。許される年代だから、ブランドとまで呼ばれる価値がある。

かまけてないのなら、それは幸せなこと。きっと、若さを失ったとしても、面白い人間として成長できる。そう思う。

年の暮れ。卒業間近の若者たちは、若さを誇り過ぎないようにしてほしい。そんなつまらない人間に成り下がらずに生きて欲しい。

 

「結果の平等」は甘い呪い。求むるは「機会の平等」では

この世には、いろんな平等が存在する。それらのなかで、もっとも支持されるのは結果の平等であり、それは不公平ではないとすら言われがちだ。

体育の授業で実施された「御手手繋いでゴールする」ような、あれだ。ナンバーワンを無くしていく、この結果の平等化は甘い囁きとなって人々を誘い込む。

しかし、呪いであると言いたい。

これは、才能や努力を蔑ろにする行為だ。共産主義社会では、何をしても平等に財産が分配されらために、誰も働かなくなった。

己の努力を否定されることと同義だったからだ。

人は認められることによって、やる気を出す生き物なのだろう。やればやった分だけ、きちんと結果が出る世界にこそ魅力を感じる。

つまり、必要とされるのはスタートラインの平等化との定義がしっくりくる。

その上で、差別とは何かを話すべきだろう。

システムによって、仕組みによって、スタートラインにつけないことが差別であり、不利が生じることが差別である。

この定義をぼくは支持する。

結果の平等化はするべきではない。そんなものに未来はない。しかし、誰もが機会均等であるべきだ。それをしなければ、才能を埋もれさせることとなる。

日本にとって、人材は国の宝。それを最大限に見つけ出すことに注力すべき。

学校教育を無償化するのもよいのかもしれないが、それよりも「何度でも色んなビジネスに挑戦できる仕組みの支援」を国はすべきではなかろうか。

机上より実践こそ重要。頭の中や言葉の上で何かをこねくり回しても意味はない。自己満足しか得られない。まずは、やって見ること、やらせて見ることが大事だ。

失敗しても「てへぺろ」でいいのだ。これでいいのだ。

 

 

ツイッター版「安政の大獄」

ツイッター社がご乱心したらしく、絵師たちのアカウントが次々と凍結。祭りと呼ばれるこの悪のビッグウェーブは、ツイッターアプリ開発者にも襲いかかった。

悪質な通報凍結をする輩も問題だが、いつまでもそれらに言いようにされているツイッター社の体たらくも酷いものだ。

凍結された開発者のなかには、ツイッターと競合の可能性を秘めた『Mastodon』開発者や、ツイッターをまとめるサービスでモーメントと競合しているのではと囁かれる『トゥギャッター』開発者の姿もあった。

『Mastodon』はともかく、『トゥギャッター』は、煩雑なツイートを纏める機能に優れるツイッター密接型サービス。開発者のアカウントと紐付いていたため、凍結状態が続く今現在はその機能はほぼ停止している。

少し気になるのは、Mastodon開発者の凍結は一晩で凍結がとけた。トゥギャッター開発者の凍結解除になぜこんなにも時間がかかっているのか。

休日に突入してしまったがゆえに動けなくなったのか。ツイッター日本支社に発言力はないとよく話題になるが、真実味は増したといえる。

トゥギャッターのようにツイッター社への貢献度の高いサービスを蔑ろにさせておくのは、なんとも阿呆くさい。

ぼくは個人的にトゥギャッター利用者であり、その使い勝手の良さから推している立場だ。ツイート無断転載でPVを稼ぐ悪辣サイトを凌駕できる存在だからである。

コメント欄の荒れ方の酷さも目立ち始めているが、運営による管理も働き始めていた。まだまだこれからのサービスだ。

一刻も早い復活を願う。

二次創作表現者と原作の混合

いわゆる、二次創作は原作を自分なりに表現する行為である。マンガ、小説の他にコスプレに声真似なんてものまである。ツイッターアカウントのなりきりbotも二次創作のひとつか。

二次創作表現者も人間であり、それと関わる己もまた人間である。故に、相容れぬ存在がいることは有り得るだろう。あるいは、交流をしているうちに、関係破綻を余儀なくされる事態に陥ることもある。にんげんだもの。

それは別に仕方ないことだと思う。だが、その中には二次創作表現者を拒絶するようになったら、その二次創作をしていた原作やそのキャラクターが苦手になるという。

気持ちはわかる。だが、もったいないことだなと感じる。ぼくは三次元より二次元を愛する人間だから、三次元でのなんやかやは全て二次元に影響を与えることはない。切り離されているというより、文字通り次元が違う。二次元のほうが格上の存在であり、三次元は全てそれよりも「どうでもいい事象」なだけだ。

夏コミケ参加時に、とある同人誌の列に並んでいる時、後ろに並んでいたオタク二人が「作者の顔に期待するなよ。幻滅するぞ」と話をしているのを聞いたことがある。作品と作者は別物である作品でいかに可愛らしいアルトリアが描かれていたとしても作者がアルトリアであるはずがない。

その時は「こいつら狂化持ちか」としか思わなかったが、実際、二次創作表現者とその表現を混合する人だったのかもしれない。こういう手合いが存在していることはツイッター上で絵師たちが悩んでいるツイートをしてバズッていた記憶がある。

つまり、「女性をメインの同人誌を描き、アイコンをそれにしていたら購入者から『なんで男なんですか』と罵られた経験がある」との話だ。熱病にでも犯されているのかと思うような案件だが、共感する絵師たちが多かったという。「えっちな同人誌を描いていると男読者にストーカーされた」なんて話もある。これも二次創作表現と作者を混同してしまったゆえではなかろうか。

もっと二次創作と表現者は切り離すべきではないのか。もちろん、二次に限らない。創作物と創作者は別物である。どんなクズな人間でも、才能があれば純なラブストーリーを生み出すことはできる。逆もまた然りである。

作者目線でいけば、それほどまで人間の情動を揺らす作品を描けたのだといえば、それは喜ばしいことなのだけれども。作品を楽しむ人間の目でいけば、「作者がどうであれば作品に罪はない。むしろ、それを楽しめなくなるのは自分の損ではないのか」と思ってしまう。ぼくは貪欲なタイプなので、三次元ごときに二次元を食い荒らされるのがもったいないと、やはり思うのだ。

別に共感なんていらない。

謎の怒りは幼稚ゆえかも

ごくまれに、「恋人がなぜ怒っているのかわからない」と悩む話を聞くことがある。そもそも、お前はエスパーではない。ぼくもエスパーではない。だから、その話を聞いたところで、答えを出すことはできない。できないのだけれども、ぼくなりの経験を語ることはできる。

それが「謎の怒りの正体」だ。もちろん、全てがこれではない。逆もありうる。だが、ひとつ疑ってほしいのは「相手のことを大人と思っていないか」である。バカにしろと言ってるわけではない。だが自分の評価より相手が子供だった場合、相手の怒りの謎が解けないことは往々にあるのだ。

こんなことを言うと、子供な人たちから反感を買うのだが。タイトルに幼稚と入れておいたから、幼稚な人は見に来ない前提で話を進めよう。

この世の大抵の人間が子供だ。自分のことを大人だと思い込んでいる20歳を超えた子供と、まだ子供でしかないのに大人ぶってる子供と、もう大人にならなくちゃいけないのに20歳半ばから30代にさしかかる子供と、あとは手遅れの30歳を超えた子供たちだ。

大丈夫。絶望しなくてもいい、ぼくも子供だ。だから、ふらふらと生きている。生きてはいける。ただ、大抵の子供たちは自分が子供であることに対して無自覚で無頓着なのだ。だから、子供であることを指摘されるだけで怒ってしまう。また、自分の怒りが正当なものだと思いこんでいる人も多い。違うよ。大人は怒ることにエネルギーを使わない人が多い。だから、怒ってる時点で子供なんだ。

エネルギーが有り余っている存在とも言える。着地点を見失って暴走している存在とも言える。

この手の子供に、いかに論理的に説明をしても、あるいは求めても無駄なのだ。子供だから。感情で暴れているだけなのだ。それがいかに無駄なことかなんて考えもしない。無駄なことをしているのだ。全力で。

大人になると、もう無駄なことができなくなる。無駄なことをするのは子供の特権だからだ。ただ、他人に対してはそんな感情で接することができる人間であっても、恋人となると変わる。恋は人の認識を著しく狂わせる。熱狂している人間の言葉に耳を貸さないほうがいい。無駄だ。

結局、放置をするしか無いのだ。意味が無いのだから。意味や答えを求めても無駄なのだ。幼稚なのだから。これが現実であり事実であっても口にしてはいけないのだ。相手が怒ってしまうから。

つまり、だ。怒りに任せてる人間がなんなのかを理解すればいい。そしたら、まともに相手をするのが無駄だとわかるだろう。その時、相手はおそろしく「自分のことしか考えていない存在」なのだ。こちらがこちらの気持ちを伝えるのは相手が落ち着いてからでいい。

話し合いは感情ではできない。感情の冷え切った状態で論理によってするものだ。言葉の定義を摺合せ、伝えたい言葉の意味を汲み取り合って、ようやく話し合える。頭に血が上っているのなら無理だ。できない。当たり前だ。

だから「相手の怒りが謎だ」と感じたら、完全に受け流しモードに入るのが一番だろう。それがいいのだ。感情が落ち着くのを待ってから、静かに話し始めればいい。相手は子供なのだ。頭の中がパンクしてしまって、自分の器では許容できないことと対面して、パニックを起こしてしまっているだけなのだ。

幼稚だからね。器が小さいんだ。だから、「こんなことで」と思ったことで怒り出す。未成熟だからね。仕方ないんだ。

なんてことを、心の隅に置いておけば、理不尽な怒りに対して幾分か対処できるかもしれない。まあ、幼稚ってことは、頭が悪くって、自分が何をしているのかもわからなくって、端的に言えばバカなんだけど。そんなものと関わるのは自分にとってリスクでしかないのだけれども。

それでも可愛いと思えたり、愛せるとおもえる部分がある限りは、恋人ってやつはその関係性を繋ぐことができる。繋げてしまう。あんまり利益はないように思うけども。恋人って関係自体に、利益を求めるのが間違ってるから、それはそれでいいんだろう。

青春を無駄にするのが恋愛ってやつなのだもの。