モトタキの物書き活動録

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「おかね」の概念っていつまでドヤ顔してるんだろ

「おかね」の概念がいつ始まったかは未だにわかんねえけど、日本においての最古銭「無文銀銭」とみると、最大値は1351年は経つわけだ。

「無文銀銭」流通の年代が667年から672年の間だからね。

そう考えると、そろそろ、「おかね」はオワコンで、「おかね」に変わる新しい概念を日本人の総意は求めているのではなかろうか。

それとも、無意識下にある部族の総意が飽きてようとも、文化の根幹にある大黒柱のひとつだから、触れられないのかな。要石のように、なにかあれば滅びるような。

そもそも「おかね」って何よ

チート的な存在だと思う。何にでも変換することが可能なジョーカーなわけ。でも、この概念の根幹にあるのは「信用」なんです。

贋金で死ぬ。代替えするはずのものが詐欺なら死ぬ。デジタル化して、数値化すると、なおのこと酷いことになっていく。

便利なんだけどね。「おかね」って概念。でも、このツールは仕組みが完全に理解されて裏ワザ攻略法がいくらでもある。

飽きるって、結局やりつくされるって意味です。つまり、ぼく的には突拍子なことを言ってるつもりはなく、「おかね」は使い倒され過ぎて、もうそろそろダメになってないかなって思うんです。

代わりなんてあり得るの

ないんだろう。

だから、みんな「おかね」って、たぶんそろそろダメなのわかってて、でもなくなると困るから神格化して、拝金主義者なんて宗教まで生まれちゃう始末。

長くドヤ顔してる概念は、もれなく神になる。猫又20年、付喪神は100年。概念は1000年を超えたら神ぐらいなれるでしょうね。

無形なのに、存続し続けてるんだもの。そりゃあ、そのエネルギーは悍しいほど蓄積されちまってんだ。わかってんだよ、俺は。そういうのな詳しいんだ。

じゃあ、むりやり「おかね」を殺すとどうなる。

縄文時代に流転する

マジなんですよ。埋められた穴を補填するのは、以前そこに居座ってた存在なんです。

明治維新でも倒すことだけを目的にした、明治政府と徳川幕府にそこまでの大きな変化はなかった。あれはレボリューションではなく、クーデターだったと言われる所以です。

これ、日本の宗教における神道と仏教を見てもわかる。もともとは神道しかないんです。そこに海外から仏教がやってきた。

すると日本では、神道が仏教に吸収されて神々は下位の存在となったりさ。はたまた、復活すれば、今度は廃仏毀釈で、寺や仏は壊されて焼かれる。

現代は、みなさんやおよろず信仰に近いと思います。クリスマス祝って、除夜の鐘を突いて、初詣を楽しむ。節分、バレンタインデー、すべて祭なんです。ハレを楽しむのは神道です。ゆえに、みなさん神道です。

では「おかね」の前ってなんなのよ、となる。こんなのは決まってます。「物々交換」です。「おかね」を介さず、等価交換の原則で、【行動であれ物資であれ何かを欲するのなら、同価値の何かを与える】のです。

結局、根幹にあるのは「信用」ですね。大元は「国の信用を借りる」の「おかね」の概念。国を殺せば、「おかね」の概念も死にます。

ならば「個人を信用する」しかなくなり、「物々交換の時代」となるのです。

仮想通貨なんてものが流行ったり暴落したりしてますが、言うてしまえばあれは「おかね」の概念を殺さずに「国ではなくコミュニティを信用する」に変えようとしたものだったわけですね。

「おかね」自体を無くせば流転ですから。

物々交換の世界はどんな世界

もし、貨幣によらねば今の社会がありえないのだとすれば、「おかね」を殺すと、人類の寿命が縄文時代に戻ります。

平均15歳に満たない世界。

トリフィドやゾンビパニックで荒廃した世界で生きていくエンドになるじゃないですか。あれがまさにそれ。力こそパワーの世界観。

多分、ぼくはすぐ死にます 。これを読むあなたもさっさと死ぬでしょう。残念。

だから、倒したいのなら新しい概念を先に考えねばならない。いまんところは無理っぽいですよね。知らぬところで生まれてるのかもしれません。

ひとつ言えるのは「おかね」がドヤ顔し続ける日は、まだ当分続きそう。

 

 

卒業間近のJKとの対話で気付く「JKブランドと青春」

‪もうすぐJK卒業するJKの友人が「あたし、JKブランドとかよくわからない! はやく卒業したい」と言ってて、ぼくはなんとなく(それでいい)と思った。‬

‪若いってそういうことで、口で言っても理解もできない。実感は存在しない。‬若い頃にあれをしておけばよかったと後悔する人間のほうが圧倒的に多い。人類は知らないけど、日本人は多い。

‪無駄なことしかできない生き物なんだよなあ、と。あのときにあれができていれば、あれをしておけば、あれに気付いておけば。

そんな『あれ』と共に生きるのが人生なんだよな、と三十半ば近く生きて思う。たぶん早死にする家系なので、今は人生の折り返し地点だよなあと。

小賢しいんだよ、大人。だから、損をしている気分になるんだよ。でも、若さは失われるものだけど、それを持て余す頃はわからない。無駄にして、台無しにして、それが青春なんだよな、と。

だから若者を見ると言いたくなるんだよ。でも、若いなんて、ほんと十代の間だけ。どんなに頑張っても、25歳で年上を年齢で弄ってるようだと手遅れ。

「さっさと大人になりたい」と言っても、結局大人になるためには経験を積み重ねるしかない。むだに年齢ばかりを重ねてもダメ。

本当に若いならまだしも、二十代になってから『おじさん』を悪く言うのは、それだけ「自分は何も持ってません。若さを失ったら、何の価値もありません」と白状しているようなもの。

若さなんてものは、それを経験に変えて、自分を成長させられる『可能性』だから尊い。若さを失ったのなら、それなりの経験値を稼いで得てきた見識があるわけだから、敬う対象となる。

そんな当たり前のことをわからないで通せるのは10代まで。高校生の間だけ。許される年代だから、ブランドとまで呼ばれる価値がある。

かまけてないのなら、それは幸せなこと。きっと、若さを失ったとしても、面白い人間として成長できる。そう思う。

年の暮れ。卒業間近の若者たちは、若さを誇り過ぎないようにしてほしい。そんなつまらない人間に成り下がらずに生きて欲しい。

 

「結果の平等」は甘い呪い。求むるは「機会の平等」では

この世には、いろんな平等が存在する。それらのなかで、もっとも支持されるのは結果の平等であり、それは不公平ではないとすら言われがちだ。

体育の授業で実施された「御手手繋いでゴールする」ような、あれだ。ナンバーワンを無くしていく、この結果の平等化は甘い囁きとなって人々を誘い込む。

しかし、呪いであると言いたい。

これは、才能や努力を蔑ろにする行為だ。共産主義社会では、何をしても平等に財産が分配されらために、誰も働かなくなった。

己の努力を否定されることと同義だったからだ。

人は認められることによって、やる気を出す生き物なのだろう。やればやった分だけ、きちんと結果が出る世界にこそ魅力を感じる。

つまり、必要とされるのはスタートラインの平等化との定義がしっくりくる。

その上で、差別とは何かを話すべきだろう。

システムによって、仕組みによって、スタートラインにつけないことが差別であり、不利が生じることが差別である。

この定義をぼくは支持する。

結果の平等化はするべきではない。そんなものに未来はない。しかし、誰もが機会均等であるべきだ。それをしなければ、才能を埋もれさせることとなる。

日本にとって、人材は国の宝。それを最大限に見つけ出すことに注力すべき。

学校教育を無償化するのもよいのかもしれないが、それよりも「何度でも色んなビジネスに挑戦できる仕組みの支援」を国はすべきではなかろうか。

机上より実践こそ重要。頭の中や言葉の上で何かをこねくり回しても意味はない。自己満足しか得られない。まずは、やって見ること、やらせて見ることが大事だ。

失敗しても「てへぺろ」でいいのだ。これでいいのだ。

 

 

ツイッター版「安政の大獄」

ツイッター社がご乱心したらしく、絵師たちのアカウントが次々と凍結。祭りと呼ばれるこの悪のビッグウェーブは、ツイッターアプリ開発者にも襲いかかった。

悪質な通報凍結をする輩も問題だが、いつまでもそれらに言いようにされているツイッター社の体たらくも酷いものだ。

凍結された開発者のなかには、ツイッターと競合の可能性を秘めた『Mastodon』開発者や、ツイッターをまとめるサービスでモーメントと競合しているのではと囁かれる『トゥギャッター』開発者の姿もあった。

『Mastodon』はともかく、『トゥギャッター』は、煩雑なツイートを纏める機能に優れるツイッター密接型サービス。開発者のアカウントと紐付いていたため、凍結状態が続く今現在はその機能はほぼ停止している。

少し気になるのは、Mastodon開発者の凍結は一晩で凍結がとけた。トゥギャッター開発者の凍結解除になぜこんなにも時間がかかっているのか。

休日に突入してしまったがゆえに動けなくなったのか。ツイッター日本支社に発言力はないとよく話題になるが、真実味は増したといえる。

トゥギャッターのようにツイッター社への貢献度の高いサービスを蔑ろにさせておくのは、なんとも阿呆くさい。

ぼくは個人的にトゥギャッター利用者であり、その使い勝手の良さから推している立場だ。ツイート無断転載でPVを稼ぐ悪辣サイトを凌駕できる存在だからである。

コメント欄の荒れ方の酷さも目立ち始めているが、運営による管理も働き始めていた。まだまだこれからのサービスだ。

一刻も早い復活を願う。

二次創作表現者と原作の混合

いわゆる、二次創作は原作を自分なりに表現する行為である。マンガ、小説の他にコスプレに声真似なんてものまである。ツイッターアカウントのなりきりbotも二次創作のひとつか。

二次創作表現者も人間であり、それと関わる己もまた人間である。故に、相容れぬ存在がいることは有り得るだろう。あるいは、交流をしているうちに、関係破綻を余儀なくされる事態に陥ることもある。にんげんだもの。

それは別に仕方ないことだと思う。だが、その中には二次創作表現者を拒絶するようになったら、その二次創作をしていた原作やそのキャラクターが苦手になるという。

気持ちはわかる。だが、もったいないことだなと感じる。ぼくは三次元より二次元を愛する人間だから、三次元でのなんやかやは全て二次元に影響を与えることはない。切り離されているというより、文字通り次元が違う。二次元のほうが格上の存在であり、三次元は全てそれよりも「どうでもいい事象」なだけだ。

夏コミケ参加時に、とある同人誌の列に並んでいる時、後ろに並んでいたオタク二人が「作者の顔に期待するなよ。幻滅するぞ」と話をしているのを聞いたことがある。作品と作者は別物である作品でいかに可愛らしいアルトリアが描かれていたとしても作者がアルトリアであるはずがない。

その時は「こいつら狂化持ちか」としか思わなかったが、実際、二次創作表現者とその表現を混合する人だったのかもしれない。こういう手合いが存在していることはツイッター上で絵師たちが悩んでいるツイートをしてバズッていた記憶がある。

つまり、「女性をメインの同人誌を描き、アイコンをそれにしていたら購入者から『なんで男なんですか』と罵られた経験がある」との話だ。熱病にでも犯されているのかと思うような案件だが、共感する絵師たちが多かったという。「えっちな同人誌を描いていると男読者にストーカーされた」なんて話もある。これも二次創作表現と作者を混同してしまったゆえではなかろうか。

もっと二次創作と表現者は切り離すべきではないのか。もちろん、二次に限らない。創作物と創作者は別物である。どんなクズな人間でも、才能があれば純なラブストーリーを生み出すことはできる。逆もまた然りである。

作者目線でいけば、それほどまで人間の情動を揺らす作品を描けたのだといえば、それは喜ばしいことなのだけれども。作品を楽しむ人間の目でいけば、「作者がどうであれば作品に罪はない。むしろ、それを楽しめなくなるのは自分の損ではないのか」と思ってしまう。ぼくは貪欲なタイプなので、三次元ごときに二次元を食い荒らされるのがもったいないと、やはり思うのだ。

別に共感なんていらない。